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よむとす No.207  「知恵の樹」を記した人

[2019年9月1日]

ID:694

「知恵の樹」を記した人

上郷図書館 宮下 裕司

 

私の働く上郷図書館には大切な本があります。それは、昭和の初めに上郷の青年たちが、自らの手で上郷図書館を創設したことを記した『知恵の樹を育てる』という本です。この本を書いたのは東京の是枝英子(これえだえいこ)さんという方です。


『知恵の樹を育てる 信州上郷図書館物語』

大正から昭和にかけて、上郷村の青年たちは上郷青年会を組織して、さまざまな活動を行っていました。その中のひとつが文庫活動です。大正デモクラシーの影響を受けて育った青年たちは、自分たちの地域と暮らしをより良いものにしていくために多くの本を読んで新しい知識や考え方を学ぼうとしました。最初は上郷小学校の一室を借りて上郷文庫を運営していましたが、やがて青年たちは、自分たちの手で図書館を建てることを決意します。本を読むことは、人が生きていくための当然の権利であり、そのための図書館は、誰にも支配されずに、人々が自由に本を選ぶことができるところでなければならないと考えたからでした。そして、それは民主主義の基本でもあります。

当時は、世界恐慌や日中戦争があり、普段の生活も決して楽なものではありませんでした。それでも、青年たちは自分の仕事以外に、野底山での山作業などで得たお金を積み立てて、図書館建設のための資金を作りました。また、工事費を節約するために建物の基礎や土台作りを自分たちで行ったそうです。こうして昭和11年7月21日、下黒田に独立した施設として上郷図書館が開館したのです。この図書館は、青年会が運営する私立図書館でしたが、上郷の村民は誰でも利用することができました。上郷図書館は、その優れた活動が評価され、昭和15年には長野県知事から優良図書館として表彰されました。上郷図書館は青年会の若者たちにとって、第二の家であり誇りでした。この表彰を記念した石碑は今でも、上郷図書館の前にあります。『知恵の樹を育てる』とあわせて、ぜひご覧ください。


『かわらぬ心をいだいて 是枝英子自伝・闘病記』

『知恵の樹を育てる』を書いた是枝英子さんは、上郷出身ではありません。昭和4年に中国のハルピン市でお生まれになった方です。英子さんは、平成30年2月14日に、東京八王子のご自宅でお亡くなりになりました。88歳の生涯でした。この本は、英子さんが生前に記されていた自伝が前半で、認知症を患って書くことができなくなってからの後半部分はご主人の洋さんが書かれた闘病記になっています。

英子さんは、ハルピン市で幼少期を過ごし、終戦の1年後に母親の故郷鳥取に帰ってきました。その後、大学の事務職員などをしながら、東京の図書館職員養成所に入り、図書館司書を目指します。そこで、生涯の伴侶となる是枝洋さんと出会い結婚されます。一方で、図書館への就職は機会に恵まれず、放送局で音楽資料の整理などをする仕事に就かれます。その後、職を転々とされる時期がありますが、その間も法政大学の通信教育で学び続けておられました。その法政大学での卒業論文が「大正期の上郷青年運動と図書館運動」( 「大正デモクラシー期の図書館運動」(別ウインドウで開く)として雑誌『歴史評論』に掲載)だったのです。この論文が元になって昭和58年、英子さんが54歳の時に『知恵の樹を育てる』が出版されたのでした。この調査のために何日間も飯田に滞在され、かつての青年会の方たちから聞き取りを行われたそうです。

私はこの本によって、『知恵の樹を育てる』執筆の背景を知ることができました。晩年に認知症となった英子さんを、夫の洋さんは10年以上介護され、アートセラピーや音楽療法など、さまざまなセラピーに付き添って通われていたことも闘病記として記されています。英子さんがお亡くなりになった1年後に、洋さんはこの本を自費出版され、上郷図書館へ寄贈してくださいました。お寄せいただきましたご厚情に感謝申し上げますとともに、英子さんのご冥福を心よりお祈りいたします。


よむとす

「よむとす」とは“読む“と“~せむとす”(ムトス)を合わせた造語です。

飯田市におけるムトスの精神を生かし、読むことにかかわる活動の推進と支援を目的とした読書活動推進の合言葉です。