ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

スマートフォン表示用の情報をスキップ

よむとす No.275 原田泰治さんを偲んで

[2022年7月1日]

ID:933

原田泰治さんを偲んで

上郷図書館 宮下 裕司

 

画家でグラフィックデザイナーでもある原田泰治さんの訃報を聞いたのは、2022年3月初めのことでした。前年の9月に飯田市を訪れて、複製画や著書を寄贈してくださり、お元気なご様子でしたので、突然のことに言葉を失いました。原田泰治さんの描く素朴な絵は、多くの人に愛されています。私自身も学生時代に伊那谷を離れて都会で暮らしていた時に、原田さんの描くふるさとの絵に心をあたたかくしてもらいました。原田泰治さんを偲んで、関連する本をご紹介します。

『泰治が歩く 原田泰治の物語』

『泰治が歩く 原田泰治の物語』(別ウインドウで開く)

原田武雄/文 原田泰治/絵 講談社 1983年10月

原田泰治さんが、幼少期に伊賀良村で過ごしたときのことを描いた絵本が『とうちゃんのトンネル』です。この本は、その絵本の中でトンネルを掘っていた「とうちゃん」こと原田さんの父・武雄さんが書いた泰治さんの成長と一家の記録です。
私はこの本を読んで、武雄さんが市田村出身で、飯田市の看板店で働いていたことをはじめて知りました。武雄さんは、大正15年に結婚するとともに看板職人として独立し、諏訪に拠点を構えます。泰治さんは原田家の4人目の子として、昭和15年に生まれました。
泰治さんが1歳になるころ小児麻痺にかかり足が動かなくなってしまったときのこと、泰治さんの母・春江さんが幼い子たちを残して急死してしまったときのこと、そして子どもたちを育てるために新しい母・か津みさんを迎えたことなど、壮絶ともいえる日々がつづられています。
戦争のあおりをうけ、看板の仕事では家族を食べさせることができなくなった武雄さんは、昭和19年に一家で伊賀良村北方へ開拓農民として移り住みます。泰治さんは当時4歳で、それから昭和28年までを伊賀良で過ごすことになります。
そこで、武雄さんは子どもたちに自分の作った米を食べさせるために、水を求めてトンネルを掘り始めるのです。そのたくましさと、我が子の幸せな成長をひたすらに願う姿は深く心に残ります。

『太陽の匂い』

『太陽の匂い』(別ウインドウで開く)

椋鳩十/文 原田泰治/画 理論社 1984年8月

原田泰治さんと、喬木村出身の文学者椋鳩十さんには深い交流がありました。この本の中で、原田さんは椋先生と昭和48年に出会ったこと、先生に自分の絵を見てもらってから、先生の紹介で出版社から絵本の依頼が入ってくるようになったことを記しています。
この本は、画家として活躍するようになった原田さんと椋さんの合作の画文集です。
見開きの片方1ページに椋さんの短いエッセイがあり、それに応えるような原田さんの絵がもう片方のページに描かれています。
椋さんは「原田泰治の絵は、あったかい。まじり気なくあったかい。太陽のようにあったかい。陽の色をした、心の酒だ」と原田さんの絵を評しています。
伊那谷で育った者同士、年は離れていても、心の深いところで通じあっていたことがうかがえます。

『課外授業ようこそ先輩 1』

『課外授業ようこそ先輩 1』(別ウインドウで開く)

NHK「課外授業ようこそ先輩」制作グループ/編 KTC中央出版 1999年3月


この本は、NHKで平成10年4月に放送された「課外授業ようこそ先輩」というテレビ番組を書籍化したものです。番組は、各界で活躍する方々が自分の卒業した母校を訪ね、後輩である子どもたちに、その方ならではの課外授業をするというもので、その中の1人として原田泰治さんが伊賀良小学校の6年1組で行った特別授業の記録です。
原田さんは伊賀良の子どもたちに、自らの生い立ちを語りながら、伊賀良の自然が、自分に“虫の目”と“鳥の目”を与えてくれたことを語っています。他にも、原田さんは自分の父親、母親の話を交えながら家族の大切さを子どもたちにやさしく語りかけます。
授業の終わりに、原田さんは子どもたちに「伊賀良で育った心を大事にしてもらいたい」と子どもたちに伝えています。
伊賀良というふる里を大切に思う原田さんの気持ちがあふれています。
 

よむとす

「よむとす」とは“読む“と“~せむとす”(ムトス)を合わせた造語です。

飯田市におけるムトスの精神を生かし、読むことにかかわる活動の推進と支援を目的とした読書活動推進の合言葉です。