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いいだの人

[2023年9月12日]

ID:385

市村 咸人(いちむら みなと)

市村

1878(明治11)~1963(昭和38)
下伊那郡山本村(現在の飯田市山本)出身
地域史研究家。

山本村竹佐の市村家に長男として生まれる。長野県師範学校講習科修了ののち、久堅小・伍和小・山本小・飯田小教諭、山本小学校校長を経て、飯田高等女学校を最後に教職を退く。
 大正初期、下伊那出身偉人伝委員に嘱託され、松尾多勢子の調査研究を始め、地域史研究の道に入る。下伊那最初の通史『下伊那郡史摘要』を発刊すると、下伊那教育会歴史調査部を発足し、組織的な研究を開始する。全国的に権威ある学者を招いて指導を仰ぐほか、必ず現地踏査を行い、実証的な研究を進めた。当時は希少だった写真撮影を研究には不可欠なものとして自ら会得し、導入した。
 研究成果は90冊に及ぶ図書と300を越す論文に著された。国学研究の『伊那尊王思想史』、伊那谷通史の『飯田郷史考』、信濃中世研究の『信濃宮宗良親王』など。1951(昭和26)年に『下伊那史』編纂が始まると、下伊那教育会館別館で研究に没頭し、第2~4巻を完成させた。
地域史家としては初の紫綬勲章を授与された。蔵書4800冊余は市村文庫として下伊那教育会に保存されている。
市村与市、河竹繁俊の兄。

(所蔵:下伊那教育会)


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伊原五郎兵衛

伊原

1880(明治13)~1952(昭和27)
飯田番匠町(現在の飯田市通り町)出身

伊那電鉄敷設の功労者、三信鉄道の創立者。本名は恒次(つねじ)。

父である先代五郎兵衛が「伊那谷に鉄道を」と運動を行っていた様子を見て育つ。東京帝国大学法科卒業後父の遺志を継いで、伊那電車軌道の監査役に就任。「伊那谷と太平洋を鉄道で結ぶ」という夢を持ちながら、反対する人々を説得して資金を集め、辰野町から天竜峡まで徐々に鉄道を敷設していった。会社の赤字から、自ら袴姿で駅の改札や清掃作業を行うこともあった。

普通選挙に当選し代議士を務め、また他の私鉄の立て直しにも協力するなど、奔走し続けた。将来の車社会を予測し、バス事業推進にも力を尽くした。

(『信州人物風土記・近代を拓く第十九巻 伊原五郎兵衛』 銀河書房 1989年発行 より)


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潮田千勢子

潮田

1844(弘化元)~1903(明治36)
飯田 江戸町(現在の飯田市江戸町)出身
明治の女性社会実業家・婦人伝道者。

飯田藩藩医の娘として生まれ、藩士の潮田健次郎と結婚するが、20年足らずで死別。1883(明治16)年、人生をやり直す決意の元、子と上京し、女学校の保育士科に通いながら、キリスト教の伝道にも努めた。
その後、東京婦人矯風会を仲間とともに発起する。公娼制度廃止を訴え、日本の先駆けとなる女子救済所・念春館を設立。また、足尾銅山鉱毒事件では現地に出向き、女性を保護する組織を作るなど、生涯を女性運動に費やした。

千勢子の長男・潮田伝五郎は、福澤諭吉の五女と結婚した。

(所蔵:日本キリスト教婦人矯風会)


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大江磯吉

大江

1868(明治元)~1902(明治35)
現在の飯田市伊賀良出身
自由主義教育者。

島崎藤村の小説『破戒』の主人公のモデルといわれている人物。
厳しい偏見と貧しさの中で育ち、差別に対抗できるものは学問しかないとして、長野県師範学校を2番目の成績で卒業。その後、諏訪郡平野小学校の訓導(=正規の教員)として赴任するが、身分を理由に排斥される。出仕先の長野県尋常師範学校では優れた教鞭をふるうも、ここでも排斥の動きがあり、差別と闘いながら、大阪・鳥取・兵庫と転任を繰り返した。兵庫県旧制柏原中学校では校長を務める。
 温厚な人柄と先進的な教育論を持ちながら、生徒の自主性を大事にした教育改革を行ったといわれる。飯田に帰省後、腸チフスにかかり、1902(明治35)年、若くして死去。

(所蔵:矢澤尚氏)


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代田稔

代田

1899(明治32)~1982(昭和57)
下伊那郡駄科村(現在の飯田市竜丘)出身
明治後期から昭和の微生物研究者でヤクルト創始者。

少年時代、伊那谷で過ごしながら、衛生環境や栄養状態の悪さから感染症で亡くなる子供たちに心を痛め、医者になることを決意。飯田中学校、旧制第2高校、京都帝国大学医学部に進み、感染症などの研究に没頭。病気になってから治すのではなく、病気にならないようにする「予防医学」の考えを提唱し、悪い菌を抑える「特殊乳酸桿菌(とくしゅにゅうさんかんきん)(L. カゼイ・シロタ株)」の強化培養に世界で初めて成功する。この菌を用いた「ヤクルト」を生み出し、誰でも手に入る価格で普及に努めた。


1955(昭和30)年、ヤクルト本社を設立し、国際的にも活動を広めた。

(提供:株式会社ヤクルト本社)


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田中芳男

田中

1838(天保9)~1916(大正5)
飯田 中荒町(現在の飯田市中央通り二丁目)出身
博物学者、殖産家。

医師の家に生まれる。幼い頃から父について山へ行き、野草から薬を作ったり、本草学や解剖学の本を読み漁る。1856(安政3)年に名古屋へ出、シーボルトの弟子・伊藤圭介につき勉学に励んだ。その後、伊藤とともに江戸へ行き、幕府の蕃書調所で植物などの研究にあたった。

1867(慶応3)年のパリ万国博覧会での出品を任され渡仏、当時では作るのが困難な昆虫標本展示が好評を博した。帰国後、大学南校(現在の東京大学)物産会を開き、1872(明治5)年湯島聖堂で毎月1と6のつく日に公開展示の博覧会を始めた。さらに聖堂横に一般人が図書を自由に読める、日本最初の公共図書館「書籍館」を設ける。その後開いた第1回内国勧業博覧会の入場者数は45万人を誇り、歴史上に残る博覧会となった。
1882(明治15)年には、東京上野に東京国立博物館の前身である山下門内博物館を移転、同時に動物園も開園した。その後、日本最初の農業博物館建設の責任者も任され、伊勢神宮神苑に神宮農業館を設立した。

一般人にわかりやすい展示を心掛け、自然資源の価値を人々に伝え広めた。

(所蔵:飯田市美術博物館)


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菱田春草

菱田

1874(明治7)~1911(明治44)
飯田町仲ノ町(現在の飯田市仲ノ町)出身飯田藩士の子として生まれ、七人兄弟の中で育つ。本名は三男治(みおじ)。

1888(明治21)年、飯田学校(現在の追手町小学校)高等科を卒業し、その後上京。東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し、岡倉天心のもと日本画を学んだ。卒業後、横山大観らとともに天心の設立した日本美術院に参加した。輪郭を用いず色彩を重視した春草の表現法は、”朦朧体(もうろうたい)”と呼ばれ、批判を受けた。

天心・大観らと1904年からアメリカ、イギリスなどで展覧会を開いて外遊し、西洋絵画の技法に触れる。その一方で日本美術院は資金不足で立ち行かなくなり、1906年に茨城県五浦(現在の北茨城市)へ移転。春草は貧しい生活の中、妻千代に支えられながら制作を続けるが、眼を患い徐々に視力を失う。その後東京へ戻るも、1911(明治44)年に若くして死去した。

作品のうち、「王昭君(おうしょうくん)」「賢首菩薩(けんじゅぼさつ)」「落葉」「黒き猫」は重要文化財に指定されている。

(提供:飯田市美術博物館)


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堀親しげ

諭卒俚言

1786(天明6)~1848(嘉永元)
江戸時代後期の大名。飯田藩主堀氏の第10代当主。7代当主親長(ちかなが)の五男。

江戸藩邸で生まれ、早くに亡くなった8代・9代の兄に代わって、1796(寛政8)年、家督を継いだ。
 凶作対策と窮民支援に力を入れ、富裕領民から御用金を徴収する制度を整える。不安定だった藩政を改善し、領民からは「籾倉大明神」として祀られた。奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行、若年寄、側用人、と幕府の要職をのぼり詰め、1843(天保14)年には老中格となって二万七千石の大名となった。しかし、水野忠邦とともに参画した天保の改革が失敗に終わり、一万石を没収され、その責任をとって引退、二男親義に家督を譲った。

文武両道に優れ、剣術・砲術・柔術・馬術などを学び、文化人との交流も深かった。芸事に溺れることなく、農民の働きを重んじ、治政に心を尽くしたといわれている。

(飯田市立図書館堀家蔵書:飯田城主堀家10代の書)


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松尾多勢子

松尾

1811(文化8)~1894(明治27)
伊那郡山本村(現在の飯田市山本)出身
幕末の尊皇派女性志士。

山本村の旧家・竹村家で生まれる。座光寺村にある父親の実家・北原家で和歌などの学問を学び、1829(文政12)年、豊丘村の豪農・松尾淳斎に嫁ぐ。病弱な夫を支えながら、7人の子育てと家業をこなした。その傍らで平田国学の門人となり、1862(文久2)年、長男夫婦に家を任せ、1人で上洛。歌詠みを道具に、平田門人たちと交流しながら尊王攘夷運動に参加していった。

足利将軍木像梟首(きょうしゅ)事件で一時は潜伏、帰省し、伊那谷にて幕府に追われる勤皇の志士らを匿った。鳥羽伏見の戦いが起こるとふたたび上洛。岩倉具視に仕え、新政府との連絡調整役を務めた。その時の多勢子の様子が、島崎藤村の小説『夜明け前』に描かれている。その後、郷里へ戻り晩年を過ごした。

多勢子は歌人としても知られ、生涯で1600から1700の和歌を詠んだといわれる。

(所蔵:竹村道生氏)


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横田文子

横田

1909(明治42)~1985(昭和60)
下伊那郡飯田町(現在の飯田市知久町)出身
昭和初期の作家。日本浪漫派。本名は婦み子。


飯田高等女学校時代から複数の同人誌を発表。卒業後、創刊した同人誌『女人文藝』を約3年間第11号まで刊行する。文学活動に情熱を注ぎ、1932(昭和7)年、上京。日本浪漫派の同人たちと交流し、触発されて執筆した『白日の書』『誘ひの日』は芥川賞候補に推薦される。
 1938(昭和13)年、満州に渡り、文学活動を通じて知り合った詩人兼図書館司書の坂井艶司と結婚するが、終戦後に別居。飯田へ帰り、『信州日報』の記者を務めながら3人の子を1人で育て上げる。その後再び上京し、電気協会の機関誌編集にも携わった。

 時代に流されず、社会や家、権力への反発を文学で表現し続けたとされる。長男・坂井信夫は詩人。

(所蔵:坂井信夫氏)


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