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堀家蔵書に関連する人物

[2017年6月26日]

ID:199

堀家蔵書に関連する人物

太宰 春台(だざい しゅんだい)1680−1747

だざいしゅんだいの画像

儒学者。延宝8年(1680年)飯田の上荒町(現在の中央通り)に生まれる。幼名を千之助、名は純、通称を弥右衛門、字を徳夫・春台・紫芝園(ししえん)と号した。父言辰(のぶとき)は飯田藩主堀家3代目親常(ちかつね)に仕えていたが、事情により春台9歳のとき、一家で江戸へ移り住む。
17歳のとき中野�謙(きけん)の門に入り朱子学・書を学ぶ。書は楷書を重んじ古法を学び、後には独自性を発揮した。その後荻生徂徠の門下となり服部南郭と並び称された江戸時代を代表する儒学者となる。
36歳のとき小石川で紫芝園の塾を開き諸人を指導する。春台は儒学の古典をふまえながら「経済こそが政治の中における基本的な要素である」と政治の中における経済の重要性を強く力説した。当時、儒学者や為政者の誰もが明確にし得なかった経済を学問的に体系化して施策の具体的指針を示したことは、後世の経済学の発展に極めて偉大な貢献をしたとして高く評価されるべきことである。
春台は博学で儒学以外の学問、天文・算数・医学等にも通じていた。笛の名手でもあった。延享4年(1747年)68歳で亡くなり、東京都台東区谷中坂町天眼寺に葬られた。「古文考経」「経済録」の他著書はかなり多い。
画像は「太宰春臺」(前澤淵月 嵩山房)による。

福住 清風(ふくずみ きよかぜ)1778−1848

ふくずみきよかぜの画像

国学者、歌人。安永7年(1778年)飯田本町の旧家、長瀬五郎右衛門の四男に生まれ、知久町の福住喜三郎の養子となる。幼名を米吉のち佐六、通称喜三郎、諱を貞直といった。雅号を初め梅門・松老・徐崖・笹の屋のち笹垣清風と号した。福住家は代々知久町で売薬商の傍ら貸本業をなし、飯田藩の仕送り御用達及び町年寄りを勤める家であった。
歌人で俳人の祖父や父の影響を受け、幼いころから歌に親しむ。初め狂歌のち和歌を詠み、俳句も作った。27歳のとき服部菅雄の門人となり、植松茂岳の教えを受ける。本居派の国学に共鳴した清風は、新古今集をもって歌道の精髄だと絶叫した。その明晰な講義と流麗な歌調は当時の信濃歌壇を風靡し、請いて教えを受けるもの数百人にのぼった。その弟子のなかに原信好、北原稲雄、松尾多勢子といった尊王の士を出したことは特筆すべきことである。当時、同じ町内から江戸に出て有名な国学者となった千葉葛野と並んで伊那谷における双璧といわれた。
嘉永元年(1848年)71歳で亡くなり、飯田市江戸町正永寺に葬られた。生涯を郷土で過ごした清風は天下に知られるにはいたらなかったが、信濃国学界に貢献した功績はかなり大きい。著書は「ひとつこころ」「をられぬ水」等多数ある。
画像は「伊那尊王思想史」(市村咸人 国書刊行会)による


参考文献
「太宰春台・服部南郭」(叢書・日本の思想家17 明徳出版社)
「太宰春台のあしあと」(西澤信滋)
「太宰春台」(武部善人 吉川弘文館)
「下伊那文化事典5」(新葉社)
「信濃人物誌」(村澤武夫)
「信濃文化発達史」(村沢武夫 山村書院)